僕らの証明はどこにある

不器用で下手くそ それでも人生さ

『手紙』を『書く』ということ

わたしがまだ田舎の中学生だった頃、『手紙』という文化はいつもすぐそばにあった。

時は2000年代、折りたたみ式携帯の全盛期。それでもまだ中学生が携帯電話を持つには少し早いかな、という田舎の風潮が強かった当時、我々のような山と田んぼと住宅街に囲まれた地方都市の中学生が文章をやりとりする為の最強ツールは、ルーズリーフとペンだった。読み易さなど二の次のような色とりどりのボールペンや蛍光ペンを駆使して装飾を施し、誰も彼もが可愛らしい丸文字に憧れ、他愛もないような内容を半分、または4分の1サイズに切ったルーズリーフにぎっしりと書き込み、独特のあの可愛らしい折り方で小さく折り畳んでは制服のポケットに忍ばせ、授業の合間の休み時間毎に交換し合うのだ。

現在におけるLINEやインスタDMの雑談のように、思春期の我々は手紙のやりとりをしていた。

 

少し前に部屋の掃除をしていた際に、まさに当時中学生だった頃のわたしが友人たちからもらった手紙が大量に出てきた。キャラクターものの可愛らしい大きなお菓子の缶の中に大切にしまってあったそれは、10年以上の時を経ても特に劣化することもなく、当時の空気をそのまま瞬間冷凍したかのようにずっと缶の中で息を潜めていた。

あまりの懐かしさに思わず手に取って開いて読み返してみても、その書き込まれた内容に大層な意味などない。言ってしまえば「おなかすいた」とか、「次の授業であてられそうだからやだな」とか、「◯◯ちゃん実は◇◇くんのこと好きなんだって」とか、「部活がんばろうね」とか。

それでもその小さく折り畳まれた紙のひとつひとつをほどいて中を覗くたびに、今この歳になってその折り目をほどいて手書きの文字を読むという行為そのものが、たまらなく愛おしく思えるのだ。

 

先日、ふとしたきっかけで友人に手紙を書いた。

良い歳の大人になったわたしは、ルーズリーフの切れ端などではなく、綺麗な便箋に読みやすい深い色合いのペンで、丁寧に文字を綴る。たった一言、今でこそLINEやSNSでやりとりをしてしまうような短文ではなく、長く、重たい文章を、それこそこのブログにいくつもあるエントリーのように。

久々に書いた文字のそれはガタガタで書いているうちにだんだんと曲がり、文字も歪み、普段まともに長々と紙とペンで文字を書かないせいで非常に見栄えの悪い恥ずかしい出来のものだったが、中学生当時授業の合間に一生懸命ルーズリーフに文字を綴っていた、あの頃の自分に返ったような気分だった。

きっとわたしの中には、今だに紙とペンで一生懸命言葉を綴っていたあの頃の気持ちが、根っこにずっと宿っている。

 

 

ありがたいことにわたしにはこの歳になっても時々手紙を書く機会がある。

それは今回のように友人に気持ちを伝えるためものであったり、はたまた大好きな推しに想いの丈をぶつけるための手紙だったり。その度に、その時のわたしが大事に抱えていた紙とペンで言葉を綴るあの時の気持ちと向き合い方が、今のわたしにアナログで文字を綴る原動力を与えてくれるのだと思う。

きっとあの頃のわたしはそんなことなど全く考えておらず、ただ目の前だけを見て必死に生きていたのだろうけど。

 

その時必死に生きた『今』が、過去になって糧となった結果、わたしを作り出している『根』になっているのだと、今この歳になって噛み締めている。